「擬人化」あるいは「擬物化」
2005年度 文芸特殊講義IX 後期課題講評

課題:「擬人化」あるいは「擬物化」という手法を用いて、
ショートストーリー、エッセイ、論文などの文章を一編作成せよ。(両方の手法を使用することも可とする)

以下、受講生に全員分の講評をプリントして配ったものの再録です。
Web公開のため氏名はイニシャルにしてあります。


■文芸学科1年

Ha-K
「対岸の白い君」

日本語は本当に小説が書きやすい言語だと思います。たとえば「ですます調の独白」という形式を選んだだけで、文章に告白の真摯さとほんの少しの可愛らしさが宿るのですから。さて、この作品もその表現形式を使っているわけですが、主人公は輪廻上級者のミツバチから「目覚めてみたら身体が動かなくて困惑。それでも風が吹くと揺れるからおかしいなと思ったところで俺に蜜を吸われて、自分が花になったことを納得したんだろ。その感じからすると目覚める前はニンゲンだったんだな」と言われて初めて自分が花に生まれ変わったことを知ります。中崎タツヤの漫画(確か『じみへん』か『身から出た鯖』)に、ヒットマンにやられたヤクザが死ぬ間際に「何年もかかって故郷に帰って一回きりの射精で死んで、しかも身体の接触もなしだろ……(最後のコマで)生まれかわるとしたら、シャケはイヤだな」とつぶやくという、含み笑い系の話がありますが、話の構造は似ていながら、中崎タツヤの対極にあるような「切なさ」をラストでかもしだしているところはかなり良い感じ。人間だった時の悲恋のエピソードの挿入が、ちゃんと主人公の最後の選択をもりたてています……というか、本当はその悲恋こそが重要で、そこにスポットをあてるために花の擬人法を使ったのならば、その意図は成功しているといえるでしょう。

Sa-Y
「白いまぼろし」

「もういちどボータウンへ行きたかった」というおじいさんの最後の言葉をうけて、北の村から旅に出たアリのドロシーの話。ボータウンはすべてが白い砂糖でできた街。しかし、そこでのあまりにも甘い生活は、記憶や名前すら失ってしまっても困ることがない。溺れるドロシー。童話の基本形に「欲を出してバチが当たる」「満たされて堕落する」というパターンがしっかり根づいているのは、大人自身が人生の何ごとかで味わったやるせなさを、子供たちに分かる形で示して理解してもらいたい、という「大人は分かってくれない・逆バージョン」の叫びがいつも押し殺されているからだろうか? 子供に教訓を与える、なんていう単純な理由ではないような気がする。この、アリに人格を託した童話もそのパターンに組み込まれてはいるが、最後に自分を取り戻したドロシーが北の村に帰った時、彼のまわりを埋め尽くす雪の白さが、読者にはボータウンの砂糖の白さの何倍にも美しくイメージできるようになれる流れは、凡百の説教臭い結びの童話よりも遥かに感じよくまとまっています。

Ha-S
「擬人化(詩)」
詩3篇 *擬人化*
「気に入ったものにはみんな名前をあげた。名前をもったそれらは、もう物質ではないんだな。」というフレーズから、裏返すと、名前を失うと「物」になってしまうんだな、と気づかされる。その意味で、このひとつ前の齋藤さんの話で、アリが砂糖の街で名前を失うのは擬人化→物化という捉え方もできたのだなと思った。
*石っころの行方* いつもの石けり遊びなのに友達の表情がこわくなるような出来事のあとでは石けりは遊びにならない。友達と僕の行方とともにいつもは気にならない石ころの行方も気になりだす、という心情をフレーズに託している。*人型の抱き枕をだいて*これ以外に代役がつとまらない枕はときに感情をぶつけて凹ましても、自分の肩にまわすやさしさは変わらない。——これは「物」だから、という側面もあって、生きているということは変わっていくこと——を体現している自分の感情の振れを引き立てている立役者としての枕の位置も見えてくる。



Sa-M
「お喋りな靴」
下駄箱に入っていた見覚えのない懐中電灯。ツカサはそれが光を当てたものにしゃべる能力が与えられるドラえもんの秘密道具的な力をもっていることに気づく。電車の中で自分に語りかける声がやがて靴からだと気づく。何も変わらない世界がつまらないと感じているツカサは、じつは周囲のいろいろなものが変化していることに注意をはらっていなかった。地上10センチの人とはちがう風景を見ている靴と話すことで、ツカサが精神的成長のきっかけを得る話である。のび太のように痛い目にあうまで道具に頼り切るわけではなく、また、ただしゃべるだけの靴が、それに溺れるほどの魔力を持っているわけでもない。しかし、精神的成長は、他者との対話によってひらかれるものだ、ということを作者は分かっているのだと思う。


I-Y
「日常の中のちょっとした出来事」
広場の噴水をぐるりと囲むようにあるベンチでゆったり過ごすのが老人の日課。その穏やかな生活の中にも、時々別のものがわき出すことがある。時計の針が真上で重なる瞬間、などの時刻の表現が独特で、もしかすると、この円形の噴水こそが、時計のイメージをそのまま体現しているのかもしれない、と思った。いちばん北側のベンチで泣いていた坊主頭の少年との対話のさなかに、少年がさかんに気にする学生服の第3、第2ボタンなど、ところどころに象徴的なアイテムが光っていて、それぞれの人が秒針や分針のように、違う速度で噴水を回っているような作品である。


Yo-Y
「或いは人間のようなモノへ」
ほとんどの人間が『発症』するために、逆に精神病という言葉が過去のものになっている世界で、いつか『発症』する不安を抱えるせいか、怜司は不変なものを好む。そして古書店『朝霧堂』に通い詰める。その店に勤めるアンドロイドだと自覚できないアンドロイド少女と、すでに『発症』しているのに自覚が無いため、永遠に『発症』を恐れつづける少年の出会い。それが最後にたどり着いたのが、『発症』者というこの作品世界でのマジョリティへの所属と安堵というところが、価値観の違う世界にいる私たちから見て薄ら寒い感覚を呼び起こされる——という価値の反転に成功している。ただ、アシモフの書く古典SFのように説明が表面に出すぎているところが惜しいところ。
 類似形の参考作品としては神林長平『七胴落とし』がお薦め。テレパシー能力を失うこと=大人になることである世界での少年たちの日々を描いた作品。

Ti-M
「十円玉の旅がらす」
昭和55年生まれの十円玉の旅。コミカルな童話的語り口で進むのだが、殊勝な女の子によって募金箱に入れられたものの、それが募金を騙った悪の組織の資金源だったりするエピソードなど、ちゃんと現代性も備えていて面白い。ドブに落ちてお金としての人生を失うところだった十円玉は、運良く拾われる。しかし、拾い主はいつまでたっても使ってくれず、まるで十円が聞き耳をもっているかのように「君は特別な存在だ」と話しかけられたりもする。なぜか? ラストできちんと心温まる謎解きを与えられて、僕も財布が膨らんで邪魔だなとしか思わなかったジャリ銭に、ちょっと感情移入してしまった。十円玉に語る人格を与えても、特別なパワー(自分の意志で選択したり勝手に歩いたりする力など)を与えず、ちゃんとモノとしての十円玉の枠からは外さないで話を進めるという、擬人法のあるべき使い方をもって書かれた良作。だからこそ、誰もが自分の財布の十円玉にも、この話のようなストーリーがあるのかもしれないと思えるのだ。

Ya-A
「Diary」

読み進めて、待てよ、これはタイトル通り恋する女子高生の「日記」で、どこが擬人化や擬物化なんだろう……と思っていたら、ある一ページをめくったところ、それまで1月6日から年号なしで続いていた日記の2月8日の次に、なぜか1月10日が現れる。それも2006年の年号つき。このページだけ明確に今年だ。そこで、この作品のタネがあかされる。じつは赤点続きなのが格好悪くて、数学を男に見立てて書いていた高校時代の日記を読み返してみたら、これってまさに擬人法なのではないかと思ってレポートに仕立てたというカラクリ。もしここで切っていたら、ただの楽屋落ちネタどんでん返し作品なのだが、タネあかしのあとに平然と2月10日以降の日記の引用を続けるところが上手いです。日記のほうの現実がたどりつくところに余韻があって。これはありものの素材(この作品の場合、それも作り物なのかもしれないが)を切り刻んで別のものを混ぜることによって意図しない効果を得る、ある意味「カットアップ」に近い技法ですね。やられました。

Su-J
「風来坊がやってきた」
幼いころから病気がちで入院生活が長い少女にできた友人。北風小僧のカンタロウ。その友人のことを日記にしたためても、母親は空想で面白いお話を書いているとしか思えない。空想の友人をつくらなければならない娘を不憫にさえ思う。しかし少女にとってはリアルだ。やがて少女はカンタロウに対し「私を褒めてください」と言う。意外にも、やさしいカンタロウが「やなこった」と拒絶する。このシーンは象徴的だ。褒めてくださいと言ってしまった時に魔力は消えたのだ。たとえば作品の感想にしても、きかせてくださいと相手に求めてしまったら、もう自然な本音は聞けない。本音は自然に相手に語らせる以外にない。最初、相手が口をひらくのを待てる強さと忍耐をもっていた少女は、カンタロウの幻影をリアルにしていた。しかし、それは少女を空想の世界に引きこもらせるだろう。だからこれは悲劇ではない。少女の成長の過程で出会わなければならない通過儀礼であり、それを童話的イメージでうまく構築できていると思う。

Sa-H
「岩」
漫画作品。公園にある小さな岩。今日もまたその岩は同じ場所にあり、少年たちが夢中で蹴ったり殴ったり水をかけたりする。それをただ眺めている自分。イジメを見て見ぬふりをしている少年の独白かと思えるが、最後のコマで「関係ない」「アレは…」「僕ではない」というモノローグがあり、真相の軸がぶれる。これはもしかすると、いじめられている自分を認めたくないプライドが現出させた、否認のための擬物法なのかもしれない。絵の力をちゃんと味方につけて、これをわずか2ページにまとめられる技量は確かです。2ページを見開きにはしていないところも、ちゃんと見せ方の計算を感じました。


Ni-M
「擬人化」「擬物化」2本
「擬人化」"Home"を作る仕事(というのが何なのか最後まで説明はない)をしている私に、父が助手をつけてくれた。助手の名はベンジャミン。この作品を読みながら、ネーミングのせいか、まるで開拓にうちこむアメリカの農夫たちのような印象を受けたが、読み終えてから、この助手はきっと「パソコン」で、ホームページを構築する仕事なのだろうな、と思った。僕の読みは外れているかもしれないが、もし当たっているなら、一瞬でも「大草原の小さな家」の牧歌的風景を読み手の脳裏に呼び起こさせた作者の勝利だろうと思う。
「擬物化」こちらの作品では、部屋に2年前からある邪魔な「モノ」が人間であることに、すぐ察しがついてしまうのが惜しい。察しがつく時点をもっと遅らせられれば、背筋が寒くなるほどのホラーとして成立させられると思う。読み進めていくうちに「えっ、コレ人間だったのか!人間に対してこういう扱いをしていたのか!?」と気づかせれば一級品のホラーショートショート。

Mi-Y
「消えた日」
問題への間違えたアプローチの仕方をたとえて「テレビをいくら分解して調べても、映っていた番組のことを知ることはできない」という話しをこの授業の中でしたことがあったと思いますが、
それを改めて別の角度から考えさせられる作品です。自分を見てよく笑ってくれる家族のために毎日働いていた「僕」は、ある日、家族のひとりがいないことに気づく。そして、娘のまいちゃんが誘拐されたことを知る。まいちゃんは身代金要求もないまま林の中で変わり果てた姿で発見され、殴られたあとがたくさんあり——という事件を「僕」がしゃべるたびに、家族が冷たくなっていく…… 家族を悲しませる自分なんていらない、と、テレビがありえない方法で「自殺」したときに「電話が今度は声に出さずに泣いた。」というラストの一行が、切なさとやりきれなさを健気にうけとめて哀切さを際立たせます。機械に罪はないと思いたがるのは、人間も言わされたりやらされたりしていることのほうが多くて、自分の意志とアウトプットが一緒になることのほうが僥倖なんだ、という立場を投影しているからかもしれません。……と、そんなことまで思わされてしまう良作でした。

Oo-M
「Green」
二つに分かれた舌先を持つ、飼われる身分の「あたし」は、たぶん蛇なのだろうと思う。飼い主はモリ。「あたし」から見て完璧な人間であるモリを崇拝する「あたし」は、モリ以外の生き物すべてが枯れた草木のようにしか見えない。それで、ほんとうの枯れ木と誤って生き物を殺めてしまうことがある。ちょっとものうい雰囲気をかもしだす文体は安定感があって、ムードをくずさずに読み進めていけるが、やがて、モリがある観葉植物を連れ帰った時から緊張感が生まれる。それに「あたし」は嫉妬し、必死になる。その末にモリを殺してしまいそうな自分に気づくが、最後にモリが「あたし」の名前を呼んだ時に、読者は疑いをもつ。「あたし」は蛇ではなく、自分の舌をスプリットタンに仕上げた「人間の」女だったのかと。このように、はっきりと描写しない事実によって、作品の空気をうまく保つことに成功していると感じた。

Sa-T
「犬の声」
人為的につくられた天才犬ウィラードと人間の相棒・壮佑のストーリー。ウィラードは人語を解すまでの能力を持っている。しかし、身体は犬なのでしゃべることは出来ず、人間の手足や背丈に合わせて作られたこの世界で行動するにも何かと不便なので相棒・壮佑の力が必要だ。外見は犬なのに、下手をすると並みの人間以上の知性をもっているウィラードは、研究所の一部の人間から快く思われていない。やがてウィラードと壮介はそんな人間たちの悪意の罠にはまる。小説として安定した文体でしっかり書けているので、読む速度が鈍ることがない。だから人間の知性と犬の本能の板挟みにあるウィラードの苦悩も自然と理解可能だ。
 類似形の参考作品としては川又千秋『火星人先史』がおすすめ。(しかしもう入手しづらいかも)これは火星植民のために労働力として改造カンガルーを導入したものの、カンガルーのほうが火星の覇権を握り、それに対抗してカンガルーに脳移植した人間を潜入させるSF。しかし、その改造人間がカンガルーとしての本能と快楽に目覚めて……という話。人間から人間ならざるものへの内的変化の過程がうまく描かれています。

I-N
「無題」
君がいなければ生活できないほど、麻薬的に君に溺れていて、君の七色の歌声にいつも酔っている僕の一人称で書かれた、熱に浮かされたように詩的な告白体の文章。しかし、最後、僕の選択は、君をつないでいたものをすべて切断し、君を捨てに行き、その次の日、違う君を迎えに行く。というものだ。
 彼が愛していたものは携帯音楽プレーヤである、というのが袋とじになっている最後のページの演出のなかで判明する。言葉ではなく、画像での表現になっていて、今回の課題で多くの人が「オチ」をどうつけるか(あるいはぼかすか)に頭を悩ませている中で、個性的な選択肢を選んだな、と思った。その隠しページにに作者の言葉として綴られているように、固有名をつけるという行為は、それが属しているもの(人類とか大量生産の製品とか)を離れて、その個体自体を愛しているということの現れであると思う。

Sa-M
「猫恋」
売れない純文学作家の私は、生活のためにエロ小説も書いている。そんな執筆中の彼女に話しかけるよくしゃべる猫の話が、たんたんと綴られているだけだと思っていたら、猫がどんな小説を書いてるか教えろと言ったあとのラストの12行でころころと現実が入れ替わってしまうようなさまに、急に目が覚める思いを味わった。
一番印象的な一行を抜きだそう。
「この窓からいつも私を仰いで見つめていた猫の話。」だって、液晶ですよ。
ああ、ここで綴られていた文章は小説家の彼女の手によるものではなく、すべてはパソコンの画面の中のテキストで描写されただけのものかもしれない。もしかしたら窓のこちらがわにいるのはこのレポートを書いている阪井さんなのかもしれない。いや、本当は猫しかいないのかもしれない……と、一行ごとに現実が様変わりする印象をもちました。


A-N
「擬物化の境界」
「擬物化」と「擬人法」の定義を明確にしなおし、「物になぞらえる」というかなり広義に使用できる擬物化とほかの表現法(比喩など)との境界がどこにあるのかを検証する論文。例証がたんねんになされており、無意識のうちに人を物と感じていれば擬物化であるとした次に、それでは単に遠くにいる人を物と勘違いすることも含まれる、という定義の穴を見つけ、「肉体(感覚)はそのものを人であると識別するも、精神がそれを物だと認識した場合」を擬人化とするべき——と境界づけするなど、論考の流れが明解で、「擬物化」という言葉自体に迫るという着眼点も新鮮だった。

Yo-K
「男性器を擬人化したまったく新しくない画期的な読み物」
もともとこの作品タイトルは掲げられておらず、最後にあります、と表紙にことわりがある。主人公の痛いところを突く、常にクールな友人が話しかけてくる形式だが、終盤の「死ぬまでには僕に活躍の場を与えてくれよ? 君の右手はもう飽き飽きだ。期待してるぜ」というセリフがくるまで友人が主人公自身の男性器だと気づかれない書き方をすれば、もっと面白くなると思う。さらに、君の右手はもう飽き飽きだというセリフにも自慰とは別の意味をかぶせ、読者に「他のことを想像したけどこれは自慰のことなのかも?」と気づかせる程度に抑えれば、かなりハイレベルの「息子もの」に仕上がるだろう。


Ni-K
「肉叢(ししむら)の弾丸」

人間魚雷「回天」の一部として優秀な誘導装置のように扱われる青年たちの訓練中の人間ドラマ。現実の戦争を記録によってしか知らない私たちが戦争物を書く時には、資料からの引用を行わざるをえないが、あくまでも現代の自分というフィルターを通すために、引用にしてもコピペではなく自分の文章で打ち直したほうがよい。予備浮力の力の字がカタカナのカになっている場所があったので、そういう原典のミスも排除できるだろう。描写や文体は安定していて、雰囲気はよく出せていると思うので、仕上げに細心の注意を心がけてください。
 おまけでつけてくれた漫画のラフのほうが、擬人化、擬物化という点では興味深かったです。18禁マンガになりそうなのでボツにしたようですが、こちらのほうがテーマとしてはリアルなのではないでしょうか? 成年コミックの中には「エロ」という足かせの中で個性を追求した結果として時々とんでもなく優れた作品が生まれたりするのですが、擬人化ということで思いだすのは甘詰留太の「豚汁〜ぶたじる〜」ですね。豚舎の豚をすべて少女の姿で描いていて、いつか殺さなければならない豚の一匹に名前をつけてしまった農業青年の話です。


Ka-K
「穴」
「穴」というものはぽっかりあいた空間なので、それ自体だけでは存在できない。むしろ穴のまわりが何であるのかが、その穴の性質を決める。ということを考えさせるような恋愛小説。「好きな相手に尽くして自分なしじゃいられなくして、それで消えちゃう女」だと男友達に指摘される主人公は、恋人が心に開けた穴は開けたその人でなければ埋められない、という実体のない不安と、恋人が左耳のピアスはとっかえひっかえするが、右耳にあけた穴にはずっと自分があげたピアスがあるという実体をともなった安心感の両方をかかえている。恋人の左右の耳のピアスは、主人公自身の、恋人と男友達を左右におくことで満たされる人間関係の隠喩になっている。穴のふち(人間関係)を描写することで、それがなければ自分が物ですらなくただの「穴」である不安を描くことに成功している作品。


Na-A
「ダイアローグ」
約束をやぶった彼女に電話して、ちょっと小言を言い、携帯を閉じた時にたまたま現れたのは、いつも自分の失敗に的確なツッコミを入れる「奴」だ。公園のブランコに並んで座り、ひとしきり会話したあと、前向きに心を決め、一緒に立ち上がろうとする「奴」を目で制する。つまり、作者は「後悔先に立たず」という言葉を、リアルな日常を舞台にショートストーリー化したわけだ。ブランコの隣に座っていた「奴」は「後悔」そのものだったのだから。ここで読者は「奴」の意見がすべて見てきたように的確なわけを納得させられる。そして、的確な問いに黙らせられていた主人公の「俺はどうしてお前の言うみたいにうまくやれないんだろう」という問いに今度は「奴」が黙る、というシーンが読者のなかに改めて良いシーンだったなと浮かび上がってくる構成は巧み。

I-K
「カーニバル」
"ヤツ"の手によって皮膚をそがれ、切り刻まれる存在の視点で凄惨にも淡々と語られていく作品。だんだん、これは料理の過程で、素材の一人称で書かれていると感じ、わたしを切り刻む"ヤツ"が悲しみからか猟奇的恍惚からか泪を流し続けるシーンでは、じつは「わたし」はタマネギなのではないかと読者は予想することができる。はたして"ヤツ"はカレーライスを完成させ、なんだ、凄惨な描かれ方をしていたけど、やっぱり料理風景だったんだ、とホッとさせられるのだが、真相は……と、読者を二段構えで欺くことによって恐怖感を演出することに成功している。そして「カーニバル」というタイトルが「カニバリズム(人肉食)」を重ねたものだったのだな、と気づくのだ。

Ka-Y
「ホテル・ロンリネス」
火事がもとで妹が入院したきりになり、自分も祖父母のところにずっと世話になっている三太。その家での生活の不安を口にできるのは、子供たちが遊び場にしているホテルの廃虚の部屋だけだった。白骨死体がみつかったという噂のあるこのホテルだが、三太が感じる気配は幽霊などではなく、きっとこの建物自体なのだろう。作者はあえて説明していないが、ホテルという仮の住まいは、家のように建物がずっと見つめつづけていける家族を持つことができない。そんななか、祖父母の家よりこの廃虚を家だと思ってくれる三太に、建物自体が愛着を抱いたのだと感じた。ここを離れ、妹の入院する街へ行く決意を固めた三太の前で、とうに水道の通っていない蛇口から水滴が落ちるシーンが、それを象徴しているのだろう。

Su-H
「擬人化がもたらすもの」

なぜ人は人形を作るのか? どんなにリアルにつくろうとも人形は心を宿せないが、擬人化という行為は人形に心をあたえることができるかもしれない。という見解を、大量生産のアンドロイド・ジェリを自分だけのものにしたくて、ウイルスを使い自分の物以外のジェリを自殺させていくというアニメ『攻殻機動隊』中の「ささやかな反乱」を引用して述べている。もともとの『攻殻機動隊』ex,イノセンスが人形愛のテーマを深めたものだけに、そこにとりこまれてそれ以上の自分の見解を導くには難しいフィールドではあるが、もう一段思考の飛躍がほしいところ。

Ka-Y
「月の朝」
詩的な文章で、荒廃した大地にうずめられた私が地上に這い出すさまが描かれる。これは種の発芽のイメージなのかな、とまずは思う。しかし、赤いワンピースを着た少女が剥き出しの両足に血をにじませて歩いてくる。非常に不自然で緊張感に満ちた光景。腕と顔だけを地上に出せたわ私の前で少女は立ち止まる。そして、突然カラスの絶叫を聞き、その瞬間、私は視界をなくして、きっと酷い痛みを感じているのだろう、と思う。これは女性の子宮のなかで繰り返される生理のイメージで、命になるまえの命を描いた作品なのだと感じた。が、正解は示されず、あくまでイメージは美しい。書き込むのはここでとどめておいてよいのだと思う。

Ka-N
「かげのこ」
神父に連れていってとせがむ少年は「僕はあなたの影です」と言う。教会に連れ帰って一緒に暮らしだすが、好きにしていいと言っても自分から動こうとしない。神父は自分が少年を縛りつけているような気になり、解放してやろうと足につながる糸を切ってしまう。それから自由になった影は、寂しさから夜の影をどんどんむさぼり食ってしまい、やがて少年が「夜」そのものになってしまう。すべての人を包めるようになっても、少年がいつも抱きしめているのは神父ただ一人だった、という健気なラストシーンは、ひとつ裏返すと、本当に欲しいものならばそれだけで満足できるけれども、代わりのものでは、いつまでもどこまでも満たされることはないという人間の愛欲の深さを象徴している。愛するということは、それに縛られることでもある。自由という言葉自体がよいものなのではなく、何から自由なのかということなしでは、自由と言う言葉はアンテナが抜かれたテレビのように無意味だ——と、そんなことを考えさせられた。


Ku-S
「シリコン」
高校時代に大人のオモチャ屋でしていたバイトの回想録。自分を縛るものは、防犯カメラ。これの最重要な目的は万引きの監視ではなく、店員のピンハネやサボりの防止用だという。そんななかでなんとか受験勉強の時間を稼ごうと防犯カメラ録画の仕方を工夫してごまかし、防犯カメラに映っている時だけ、客とシリコン(で出来たオナホール)の関係をとりもつ。仕事をはなれてから書き起こしてみると、暇なはずの店内でたかがカメラに翻弄されつづけてきた自分が本当に暇だったのか? 本当にたかがカメラだったのか?と疑問に思う。そこまでして受験には失敗するのだが、はたしてこの中で本当に意味のある行動をしていたのはなんだろう? 自分? 客?
オナホール? 防犯カメラ? 店長? 最初から本来の意味が失われたカメラが存在することで、すべての価値が崩れるささやかな現実崩壊を描く作品。


Ko-M
「舞ちゃんの部屋」
私は目覚まし時計。私は布団。田舎ギャルの舞ちゃんを「起こすこと」vs「夢の中に長くいさせること」の対立する仕事を受け持つ二人。やがて目覚ましは布団にブチきれて文句をいうが、それがきっかけで会話するようになり、布団の過去を知る。昼は布団売り場に勤めるある男その夜の顔はオカマだった。彼は自分を慕う幼なじみと結婚し息子も生まれるが、やはりオカマである自分を抑えた暮らしは長くは続かず、一家離散の憂き目に。布団は売り場でそれを見守ってきたのだった。最後に舞ちゃんの好きな人がそのオカマの息子の成長後で……というご都合主義なお話だけど、いかにも中年女な目覚ましのキャラと、涙もろいオカマ布団のキャラが、憎めないおばちゃん二人組のようで、読後感はよいです。

A-S
「擬人法」
あっ、これはまるで野中英次が『魁!!クロマティ高校』で使った「タイトルを変えて2回連続で同じ原稿を載せる」という変則技だね。(僕以外の先生はきっとこういうのを面白がってくれないと思うので注意しよう)模造記憶の課題で出した「学生時代の運動部仲間との楽しい飲み会だったつもりが、中体連最後の試合、準決勝で敗退した試合の話になった途端に雲行きが怪しくなる。試合の結果は一つだが、失点に結びついたプレーを誰がしたのかという記憶は、みんなバラバラなのだ。勘違いしているのは誰か? それとも全員?そんな日常の一コマを切り取った情景描写小説」を、今度は飲み会のグラスというモノに汗をかかせたりする部分にスポットを当てて再構成した作品。

Ka-S
「地球」
 わたしは地球。という地球の独白。無数の足がわたしの体を踏みつけるのを感じる——というように地表の感覚で自分の上に芽生え、生きていく生命たちを描いていく。詩的に続いていく地球の独白だが、最後の段落において、「わたしはゆっくりと目を開く。/青い空が見える。/飛行機が、空に一文字の純白の軌跡を残しながら、ふわり、漂っている。/体を起こす。/ 立ち上がって、歩き出す。」と、わたしが地球ではなくなっている。これは人の感覚だ。ここに至って、大いなる地球そのものをひとつの生命と見る視点と、そのひとつひとつの生命がもつ視点とのウエイトが同等となる。それはひとつの個体はその個体にとっての「世界」を持っていて、その意味で物理的な大きさは関係なくなってしまう、ということの暗示となっているのではないだろうか。


Yo-R
「A SAKE SHOP'S Xmas(Santa Clous is...)」
クリスマスの居酒屋で一緒にトナカイ帽とサンタ帽をかぶって店番をしている、いまはもう別れてしまった恋人・民男とまさみをめぐるショートドラマのシナリオ。サンタを信じなくなったのはいつか、という話で、民男はサンタに出した手紙の返事の最後に、母親がいつも伝言を残す時の猫の足跡マークが書かれていて悲しくなったエピソードを話す。まさみは猫がサンタなのかもよ、と言う。やがていつも閉店間際にくる客がまさみの新しい恋人なのだと知るが、それは民男はすっきりし、まさみが置いていったサンタ帽を見て「サンタって女だったんだな」と思う。このカットにかさなる猫の演出のト書きがないので意図がつかみづらいが、母親とまさみの二人の女性は、クリスマスに失望をもたらしただけではないというすがすがしさは伝わってくる。ひとりで閉店後のゴミ出しを民男がするシーンが映像化されたなら、きっと作者の意図通り彼自身がサンタにみえることだろう。

■放送学科1年

Sa-T
「白いしろ」
人の右腕と左腕、口と耳のように、同じ身体に属していながら、別々でもあるものに、
それぞれ人格を与える文体の試み。

     プルタブを持ち上げた。
 わたしは、
     缶をハグした。 
 
というように。部屋の中の孤独な歓声が、仕方ないかのように再び主人の肉塊の中に戻っていった。という「声」の表現は秀逸。 やがて身体のパーツの「主人」がアダルトビデオの撮影に男優として借り出されたりするシーンがある。「主人」が「自分」を必要としなくなった(プライドを失った)ことを身体のパーツが代わりに思い悩むところなどは、もう一つの人格と化して分かりやすく問題を提示しているが、そこまでパーツとしての末梢の表現を貫いたらどうなっただろう? すごく可能性を感じる面白い試みなので、いろいろ別のテーマでも挑戦してみてほしい。


Hi-J
「僕は君をすくいたかった」
これから学校に行かなければならないのに、僕はこんなところで時間をとっている場合じゃない。でも彼女をすくわなくいはならない。擬人化のテーマで書いてもらっているわけだから、何を女に見立てているのだろうと思いながら読んでいくが、それでもラストで明かされるまで苦手なグリーンピースのことだとは気づかなかった。それを維持できた表現はグッド。次に求められるのは、ネタがバレてもそれだけではない面白さを盛り込むこと。たとえば面白いミステリは犯人が分かっても再読に堪えるものです。文章以外の表現でも、ぜひ挑戦してみてください。


■2006.1.20(金)文芸特殊講義IX授業にて講評配布



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