パソコンの操作を初心者に教えるとき、コピーという言葉が、一般的には「した時点で複製ができている」と受けとめられているので、コピー&ペーストにおける「一時的にクリップボード領域に写しを保持している」という概念を理解させづらかったりする。
まぁ、実際にやってみせればすぐに飲み込んでくれるのだが。
ワープロ時代の用語「選択範囲を記憶&貼りつけ」のほうがわかりやすいのは確かだ。
……で、
話をここでパソコンではなく、人間の機能にシフトしてみる。
たとえば日記などに書きつづった想いは、コピー&ペーストのはずだ。
外部に出力するといってもファイルの移動ではなく、
脳の記録を保持したまま、写しを身体の外にペーストするだけなのだから。
だが、話はそう単純ではない。
なまじ「記録」とか「記憶」とかいう言葉で説明できるから
人間の脳とコンピュータを同列にあつかえるような気がするが、
人間の場合、外部に書き留めたり、人に伝えたりした時点で「安心」してしまう。
複製を作ったのだから、もとをなくしてしまっても、そんなに痛手ではない。
そう、思ってしまう。
まぁ、コンピュータにしてもファイルの移動時には複製を検証してからもとのファイルを消すシークエンスになってるんだから、その検証のシステムが人間というハードウェアでは「安心」というフラグとして現れているだけ、と見ることもできる……けどね、
人間とコンピュータの明確な違いは、「自分」というシステムが、
時間とともに変化してしまうことにあるのだと思う。
出力したものは変化しない。日記の文字が勝手に書き変わることはない。
でも、自分で出力したものの意味はどんどん変わっていく。
それは、やっぱり、「自分」が変わるからだ。
……なんてことを考えさせられたのは、今朝、自分のMacのデスクトップがあまりにも乱雑なのに嫌気がさして、フォルダにまとめようかと思いたった時のことだ。何を書いたか記憶が薄い「2005夢の記録」というテキストファイルがあったのでダブルクリックしてみた。
こんなことが書いてあった。
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2005.6.18 朝 起きる直前に見た夢
卒業記念の冊子(パンフレットみたいな体裁)がある。ひとり6センチ角くらいのスペースで、写真つき自己紹介(ときには、友人や恋人からの紹介文)が載っている。僕の紹介文はA(2000年当時の僕の恋人)が書いている。ほめてくれている文の締めくくりは「ただ、ピンチから脱出するまでは、美点の優しさや誠実さは姿をひそめます」
だった。
A自身の自己紹介写真は、背景が工事中の江古田校舎旧正門前で、向かいの生け垣(現実には存在しない)の中にAが入って顔だけを出した状態、横顔が緑の中から飛び出した絵になっている。
彼女は自分のことを書いたあと、結びは「…今年は良い風に恵まれました。来年は母親に風を」となっていた。
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すっかり忘れていたが、
そういえばひと月くらい前にこんな夢を見たような気がする。
Aさんとは2001年に別れてから一度も会っておらず、二人で暮らしていた頃に飼っていたペットが亡くなった2003年にメールで近況を知らせあったきりなので、彼女がいま、どんな心持ちで日々を暮らしているのかは知るすべもない。つきあっていた頃のAさんはレキソタンが手放せないメンヘラーで、複雑な家庭事情をつくった母親をひどく嫌っていたが、あれから4年過ぎたいま、母親の幸運を祈る余裕が生まれるくらいの平安を、彼女自身が手に入れていられればと願う。夢の自己紹介文どおりに。
そして僕のことを「ピンチから脱出するまでは、美点の優しさや誠実さは姿をひそめます」と語る夢の中のAさんは、まるで今現在、彼女の次につきあい始めた恋人との別れ(とその後のいろいろ)で自分を見失っている僕の失態を見透かしているかのようだ。そう、恋人であることをやめた僕とAさんができなかった選択——きちんと距離をおいた冷静な友人同士のような視点で。
僕はテレパシーを信じるロマンティストじゃないから、このAさんが、自分自身の記憶を材料に夢が模造した化身でしかないとわかっている。そして、僕のことをそう思っているのは、きっとAさんではなく、最近別れたばかりの恋人なのだ。
この、脳が自作自演してまで迫ってきた認識がつらかったのか
僕はひと月もかけて、この夢を忘却しようとしていたらしい。
まあいろいろゴチャゴチャ書いてきたけど
結局言いたいことというか気づいたことというのは
ボクの頭には自分を思い出迷子に陥れる
重大なセキュリティホールがあるぞ
ということだな。マイクロソフトもびっくり。