2005年7月26日 (火)

今日のエールのバーナム効果

その人との未来に笑顔が取り戻せないなら仕方ないけど、
誰か違う人と新しい未来をはじめるとしても、
それを絶対に自分にとっての罰にしないで欲しいと思ってるんですよ。
新しい人に失礼なわけですよ。
私にはこんなダメな人と付き合うのがちょうどいいとか
夢にも思って欲しくないわけですよ。
それはその人をバカにしてるわけですよ皆さん!
高校デビューとか大学デビューとか社会人デビューとか
違う自分になろうとして失敗したことにおじけづいてても
またはじめればいいじゃないですか。
失敗したなんて後から思えばいいんです。
はじめる前から思ったって無駄なだけじゃないですか
素直に笑える人とつきあって幸せになれたなら
きっと他の人に優しさを分けられるようになるんですよ。
はじめようじゃありませんか皆さん!

——と、サンボマスター山口の口調で書くと自分の言葉なのに引用のような気がするな。いや実際自分の内側にあるものを材料に泣きつづけるくらいならサンボマスターでも聴いて無い手遅れよ泣いておくれよ。……いい誤変換だな「手遅れなんて無い」。

僕はある特定の一人に向けてこのエールを送っている。

でも、もしかしたら、その人じゃないのに、自分のことのように受け止められた人がいるかもしれない。それを不思議に思ったら、ぜひ「バーナム効果」という言葉を調べてみてほしい。
ただ、不思議を不思議のままにしておきたい人は、絶対に調べないように。

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2005年7月19日 (火)

脳みそファイルの移動とコピー

パソコンの操作を初心者に教えるとき、コピーという言葉が、一般的には「した時点で複製ができている」と受けとめられているので、コピー&ペーストにおける「一時的にクリップボード領域に写しを保持している」という概念を理解させづらかったりする。

まぁ、実際にやってみせればすぐに飲み込んでくれるのだが。
ワープロ時代の用語「選択範囲を記憶&貼りつけ」のほうがわかりやすいのは確かだ。

……で、
話をここでパソコンではなく、人間の機能にシフトしてみる。
たとえば日記などに書きつづった想いは、コピー&ペーストのはずだ。
外部に出力するといってもファイルの移動ではなく、
脳の記録を保持したまま、写しを身体の外にペーストするだけなのだから。

だが、話はそう単純ではない。
なまじ「記録」とか「記憶」とかいう言葉で説明できるから
人間の脳とコンピュータを同列にあつかえるような気がするが、
人間の場合、外部に書き留めたり、人に伝えたりした時点で「安心」してしまう。
複製を作ったのだから、もとをなくしてしまっても、そんなに痛手ではない。
そう、思ってしまう。

まぁ、コンピュータにしてもファイルの移動時には複製を検証してからもとのファイルを消すシークエンスになってるんだから、その検証のシステムが人間というハードウェアでは「安心」というフラグとして現れているだけ、と見ることもできる……けどね、

人間とコンピュータの明確な違いは、「自分」というシステムが、
時間とともに変化してしまうことにあるのだと思う。
出力したものは変化しない。日記の文字が勝手に書き変わることはない。
でも、自分で出力したものの意味はどんどん変わっていく。
それは、やっぱり、「自分」が変わるからだ。

……なんてことを考えさせられたのは、今朝、自分のMacのデスクトップがあまりにも乱雑なのに嫌気がさして、フォルダにまとめようかと思いたった時のことだ。何を書いたか記憶が薄い「2005夢の記録」というテキストファイルがあったのでダブルクリックしてみた。

こんなことが書いてあった。

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2005.6.18 朝 起きる直前に見た夢

卒業記念の冊子(パンフレットみたいな体裁)がある。ひとり6センチ角くらいのスペースで、写真つき自己紹介(ときには、友人や恋人からの紹介文)が載っている。僕の紹介文はA(2000年当時の僕の恋人)が書いている。ほめてくれている文の締めくくりは「ただ、ピンチから脱出するまでは、美点の優しさや誠実さは姿をひそめます」
だった。

A自身の自己紹介写真は、背景が工事中の江古田校舎旧正門前で、向かいの生け垣(現実には存在しない)の中にAが入って顔だけを出した状態、横顔が緑の中から飛び出した絵になっている。
彼女は自分のことを書いたあと、結びは「…今年は良い風に恵まれました。来年は母親に風を」となっていた。

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すっかり忘れていたが、
そういえばひと月くらい前にこんな夢を見たような気がする。

Aさんとは2001年に別れてから一度も会っておらず、二人で暮らしていた頃に飼っていたペットが亡くなった2003年にメールで近況を知らせあったきりなので、彼女がいま、どんな心持ちで日々を暮らしているのかは知るすべもない。つきあっていた頃のAさんはレキソタンが手放せないメンヘラーで、複雑な家庭事情をつくった母親をひどく嫌っていたが、あれから4年過ぎたいま、母親の幸運を祈る余裕が生まれるくらいの平安を、彼女自身が手に入れていられればと願う。夢の自己紹介文どおりに。

そして僕のことを「ピンチから脱出するまでは、美点の優しさや誠実さは姿をひそめます」と語る夢の中のAさんは、まるで今現在、彼女の次につきあい始めた恋人との別れ(とその後のいろいろ)で自分を見失っている僕の失態を見透かしているかのようだ。そう、恋人であることをやめた僕とAさんができなかった選択——きちんと距離をおいた冷静な友人同士のような視点で。

僕はテレパシーを信じるロマンティストじゃないから、このAさんが、自分自身の記憶を材料に夢が模造した化身でしかないとわかっている。そして、僕のことをそう思っているのは、きっとAさんではなく、最近別れたばかりの恋人なのだ。

この、脳が自作自演してまで迫ってきた認識がつらかったのか
僕はひと月もかけて、この夢を忘却しようとしていたらしい。

まあいろいろゴチャゴチャ書いてきたけど
結局言いたいことというか気づいたことというのは

ボクの頭には自分を思い出迷子に陥れる 
重大なセキュリティホールがあるぞ

ということだな。マイクロソフトもびっくり。

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2005年5月18日 (水)

別れ話の情報量

ゴールデンウィーク前に「文芸特殊講義IX」の授業内で
「20世紀の発明で、自分にとって最も意義深いものを一つ挙げ、
(1)その登場によって人がどう変わったか? 
(2)その発明の、一般に知られている使い方とは違う利用法を考えよ」
というミニレポートを出した。

やはり20世紀の発明品ともなると用途に合わせて最適化が進みすぎ、車輪やナイフのようにさまざまな応用が容易に考えられるツールではなくなってしまう。そのぶん一般に知られている使い方とは違う利用法を考えよ、という課題は学生を悩ませたと思う。

古くからあるシンプルなツールの利用法ということで言えば、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』に出てくる「百科事典棒」が良い例になるだろう。つまようじのようなただの棒に、百科事典に書かれた全ての情報が刻めるというものだ。

原理はこうだ。全ての文字を2桁の数字で置き換える。パソコンやワープロの文字コードと同じ考え方だ。「あ」は「01」、「い」は「02」というぐあいに。そして、百科事典の文字をすべて数字化したら、頭に「0.」とつける。ゼロコンマ以下、数字がずっと長くつづく少数ができる。 0.314159265…… そうすれば、棒の長さを1として、その数値が示す箇所に印をつけるだけで、百科事典の全情報は刻み込めるわけだ。しかも棒自体の長さには依存せず、1センチでも1キロでもかまわない。

もちろん、そんな正確に線を刻む技術も、読み取れる技術もないが、理論上はこの方法でどんな長い文書もただ一本の線に記録できる。アタマの遊びでしかない。しかし20世紀の発明物に対しても、この種のひらめきをものにできる学生がいるのではないかという期待のもとに出した課題だった。授業時間に並行して見せていた『バトル・オブ・シリコンバレー』では「パーソナルコンピュータが世界を変える力になる」と見抜いた1970年代のアメリカ青年たち(アッブルのジョブズ&ウォズ、マイクロソフトのゲイツ)が描かれていたが、彼らに匹敵するパワーをもっている学生は、さすがにまだ発見できない。まぁ、ジョブズばりにスゴイやつがいたら、先生の出番はないわけだが……

あと、一見無関係に思える講義と映像作品の提示が、僕の組み立て方にスマートさが欠けているせいもあって学生を戸惑わせているかもしれない。さらなる精進が必要だなと思う。

話を「百科事典棒」に戻すが、この原理から連想されるのが、レコードとCDの記録方法の違いと情報量のことだ。アナログレコードに刻み込まれた情報量が(全てピックアップできるかどうかは別として)デジタルに置換されたCDに刻まれた情報量とは比べ物にならないほど膨大なものだというのはよく知られている。

音声波形を1秒間に44100回「細切れ」にしてデジタル化したのがCD。さらにデータ量をセーブするため、人間の耳には聞こえなくなる2万ヘルツ以上の音はあらかじめカットされている。それに対してアナログレコードでは、デジタル化の際に省かれていた「細切れ」の間にある推移も、なめらかな音波と相似形の「溝」によって、うやうやしく保存されているというわけだ。

きっとここで発せられるだろう「おいおい、44100分の1もの細密さによって保存されていれば、人間の耳には全く同じように聞こえるんじゃないの?」というツッコミは正しいようで間違っている。

人間の感覚は、ときに44100分の1で分解しきれない部分や、鼓膜が反応できない高音域の「情報」を感じとれてしまう。

と、いうことを、痛感したのは……

電話ですべて終わったはずだったさよならについて
「もう一度、会って、顔を見て言って欲しい」
という彼女の願いを聞いてしまったせいだ。
言葉以外のものが語る情報量に圧倒されたんだと思う。
僕は同じことが言えなかった。
関係が終わってしまったことは変わりがない。
けれども、同じ言葉で、引導を渡すことができなかった。

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2005年5月17日 (火)

さようなら

さようなら、の語源は「左様なら」
つまり「そのとおりならば」という意味だ。

あいさつの言葉というのは、本来の内容を失った記号だ。
ありがとう、だって、
「有り難い→めったにない」という内容を意識することは少ない。

ちなみにアイヌ語のありがとうは「ヤーレゲレ」
この響きは、「私を殺してください」という意味を内包している。
アイヌの感謝という行為に対する思いは、それまでも深いものだったのだろうか。

今朝、僕は、いちばん近かった人に「さようなら」を言った。

そのとおりならば (僕が気づいてしまった疑惑が

そのとおりならば、僕は1400日以上のあいだ
いちばん近い存在だと信じていた人と
もう一生顔をあわせることはないだろう、と、おもう。

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2005年5月16日 (月)

自虐と誠実は違うものだよ 

今日、ある人が言った。

「自虐と誠実は違うものだよ」

字面だけ見れば、AはBではない、と同じくらいあたりまえのことで、
ABにあたるものの取り合わせがちょっと斬新なくらいだ。

でも、今の僕にとって、神いわゆるGODの言葉と言いたくなるくらい、
自分が陥っている問題を明瞭に照らし出してくれた。
わかりやすく言い直そう。

「自分を責めている人が誠実なわけではない」

ということだ。
生ぬるく棚上げされていた問題に、とりかかることにした。
信じたくはないけれど、相手は誠実じゃないかもしれないからだ。

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2005年4月25日 (月)

こんな夢をみた

映画をみにいく僕の恋人。「ポンヌフの恋人」
僕は最初興味がないからいかないと映画館の入口で見送る
そのあとやっぱり入場の列に並ぶ。最初もぎりの人に止められる。みると使用済みの券だった。並び直したときに、回数券を持っていることに気づく。入場するとありえないくらい横に長い映画館。人がいっぱい。しかし、やがてアナウンスがあり、スクリーンがある中央付近に意外と空きがあるので、移動したい方は今の時間にお願いしますとのこと。僕も立って真ん中のほうへ歩き出す。すると背中を引く手が。ふり返ると僕の恋人。泣いている。僕の恋人に「一緒に座って、一緒にああいう拍手をして」とお願いされる。前の席に座っている人たち30人くらいが、映画が始まっているわけでもないのに静かでささやかな拍手をしている。
そこで夢から覚めた。
僕の恋人役にリアルで電話しようとして早朝4:40を指す時計を見てやめる。
しておけばよかったなとも思う。
ところで僕は「ポンヌフの恋人」を観ていない。観るべきなんだろうか。

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