2007年8月10日 (金)

よく飛ぶ紙飛行機40周年(子供の科学9月号)

Koka0709_3  「子供の科学」という雑誌をご存知でしょうか?

いまでは「学研の科学」のほうがメジャーなのかもしれませんが、「子供の科学」は、大正13年に創刊された小中学生向けの総合科学雑誌です。創刊者原田三夫の「研究室で展開している"時代の最先端"を、これからの次代を担う子供たちに紹介したい」という編集方針を80年以上も経た現在も受け継ぎ、多くの読者に"科学の入口"を提供しています。

最先端の科学と楽しい工作を紹介して80年。
技術立国・日本を支える大人の多くが、幼き日に一度はページをめくったことがある雑誌なんじゃないでしょうか?

その歴史の半分、40年間にわたって連載されてきた巻末の切り抜き付録「よく飛ぶ紙飛行機」を設計してこられたのが、僕がひそかに紙飛行機の神とあがめる二宮康明先生です。

二宮先生の紙飛行機との出会いは、小学一年生の頃(1976年)親が転勤する同僚からもらってきた本のなかに、たまたま「よく飛ぶ紙飛行機集1」があってのことでした。ふつう汚したり折ったりしちゃダメな「本」を「切り抜く」という形にも魅かれるものがあって、すぐに作って飛ばしたものです。(北海道に住んでいたので、飛ばす原っぱにも恵まれました)

この本が幼時の僕に与えてくれた知識は、飛行機のことにとどまりません。文中の「紙飛行機を作る糊は、セメダインCがよい」という製作の手引きにより、ヤマト糊しか知らなかった僕に、貼っても紙がボコボコにならない文明の利器・セメダインCがもたらされたのです。

セメダインCの威力に感動した僕は、なんでもセメダインで工作するという、なんとかの一つ覚え状態に陥っていました。

ちょうどそのころ領空侵犯したソ連のミグ25が函館に強行着陸した亡命事件に(というかミグ25に)心惹かれ、親にねだって買ってもらったプラモデルさえ、僕はセメダインCで組み立てました。しかし翌日ミグに触れるとぽろぽろと崩壊(笑) 初めてセメダインCは万能ではなく、世の中には素材ごとに違う種類の接着剤があると気付くことになります。

まあこんなぐあいで、僕にとって二宮先生は、意義ある失敗へ優しく導いてくれた(笑)恩人でもあるわけです。

……長い前置きになりましたが、
「子供の科学」誌上の「よく飛ぶ紙飛行機」連載40周年記念記事の取材と執筆について、この僕をご指名いただけるという光栄を浴することになりました。

編集部の「だま」さん、ありがとうございます。
自分にとってはなんという恩返しのチャンス。
文章を書く仕事をしていて良かったと思える瞬間です。

取材は7月17日、東京都内某所の広大な原っぱで実際に紙飛行機を飛ばしながら行い、その記事が載った「子供の科学」2007年9月号が、今日、編集部から帰省中の北海道に届きました。

かつてその存在に出会った北の空の下で、自分が執筆した「よく飛ぶ紙飛行機」のメモリアル記事が載った「子供の科学」を手にできるなんて、どんだけラッキーなんだって!

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「子供の科学」2007年9月号は、8月10日から書店にも並んでいますので、見かけたら、ぜひお手に取ってごらんください。

取材時のエピソードなど、機会があったらまたこのブログに書きたいと思います。

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2006年11月12日 (日)

文学フリマ

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昌平橋のたたずまいが好きなので
手前の御茶ノ水で降りて
写真を撮りながら秋葉原の会場まで徒歩でGO。

そんなこんなで

うっかり一時間遅れで会場に着いたのが運の尽き。
桑島由一さんの本は完売してました(涙)
二百円のサンプル盤だけは入手。
もちろんレーベルは「NO DISC RECORDS」ですから、
こう見えてこれも本ですよ↓

Ndil

本は買い逃したけど、桑島さんと直接お話できて(すごく緊張した)ミクシィのマイミク申請をオフラインでしてしまうという暴挙を許してくださり恐悦至極です。

桑島さん、どうもすみません(汗) そしてありがとうございます。


Bunfuri

今日はこのあと銀座(といってもルノアールの会議室ですよ)に移動して、
小説同人誌「もらっぷ」の読書合評会というブンガク漬けの一日。
こちらの今日のお題はリービ英雄の『千々にくだけて』なのです。

それではまた移動開始!

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2006年11月11日 (土)

明日は文学フリマ

さぁて明日も早起きして
『仮面ライダーカブト』を観てから(ぉぃ)「文学フリマ」に出かけますよ、と。

文学フリマ
2006年11月12日(日)
場所は東京都中小企業振興公社 秋葉原庁舎 第1・第2展示室。
開場11時、終了16時。

僕が原稿(小説『雌性先熟ソードテイル』/漫画評論『ジョンベネ・ラムジーへの変身願望——現実の殺人事件と幻の犯人を巡る、おがわ甘藍「チェンジング・ツアー」レヴュー』)を寄稿している「公沁舎」のブースは2階のB-51です。

僕は正スタッフではないのでブースには居ないかもしれませんが、

ライトノベル作家・桑島由一さんの
NO DISC RECORDS
にはいきなり突入して本を買ってこようと思ってます。

レコードではなく小説をリリースするレコードレーベル、ってのは、自分はダサくないと信じている文学青少年が一度は思いつくアイデアですが、たいていの場合それは妄想倒れに終わります。

これはちゃんとお洒落にカタチにできてる成功例。
桑島由一さんの感性によるところが大きいと思います。

特別講座で日芸に来てくれないかしら、桑島さん。
チャンスがあったら直接交渉してみようかな……(どきどき)

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2006年11月 2日 (木)

日芸の芸祭、明日開幕

明日から三日間、我が日大芸術学部の学園祭

「芸祭」が開催されます。


公式案内サイトは下のバナーをクリック

Geisai

今年は江古田校舎の建て替え工事のあおりで所沢校舎開催なのですが、今日も江古田でギリギリまで準備を進める学生につきあって、夜10時近くまでスタッフT 氏と文芸学科のコンピュータ室に詰めてました。やっぱりこういう切羽詰まった感がないとお祭りの実感がわかないので、嫌々ではなく微妙に乗り気だったりします(汗)

明日11/3の第1日目、午後1時から4時のあいだ、僕は教員として高校生向けの進学相談会で面談係を務めておりますので、芸術学部に興味のある受験生の皆様、突発OFF会とでも思ってどうぞお気軽に図書館2階の文芸学科コーナーへおいで下さい。(って、いいのかそれで?)

さて、僕が今回の芸祭でちょっとばかり深く足をつっこんでる場所がもうひとつあって、文芸学科学生が立ち上げた文芸サークル「公沁舎」(こうしんしゃ)のデビュー本2冊同時刊行の両方にゲスト執筆者として原稿を寄せています。

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思えばこの春、学生との飲み会で、代表H川君の
「『大真面目エロ』と『革新的マンガ論』の2冊同時刊行でスタートを切りたいので先生も官能小説書いてください!」という無茶な願いを酒の勢いで承諾したあげく、酔っぱらっていたのか『革新的マンガ論』を『エロ漫画論』と聞き違えて、思いっきりエロ漫画論を寄稿しちゃってます。もちろん官能小説も。

先生として……いいのかオレ?

というわけで、この本は
絶対に読んではいけません!


…まぁ、絶対見るなよ、といって 
 好奇心を煽るのは商売の基本

 (それなんて雪国まいたけ?)

それにしても、
あの常盤響さんに表紙写真を撮り下ろしてもらえるとは
H川君激しくグッジョブです!
阿部和重の『インディビジュアル・プロジェクション』
を常盤氏の写真でジャケ買いした記憶が、
ビシビシよみがえるくらい嬉しいっすよ。

公沁舎Webはこちら→■http://www.koshinsha.net/■

第5回文学フリマにも参加します。スペースはB-51です。

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2006年11月 1日 (水)

いつになったら東京編が始まるのか(汗

「東京へ」のエントリでフェリーに乗船してはや二ヶ月。
ブログ主はいつになったら東京に着くんだとヤキモキしていた方がいたらゴメンナサイ(いないと思うけど)。20時間ほどの船旅の末、翌日にはしっかり帰ってきております。

2006.8.29 さんふらわあ・みと(苫小牧→大洗)船上にて

 20時間の船旅というのはけっこうヒマを持て余すもので、そのくらいで読み切れる厚めの文庫本にお供してもらっています。今回は冲方丁『マルドゥック・スクランブル』全三巻。これだけあれば行きだけじゃなく帰りまでつきあえるはずです。

狙い通り、帰りの船内で、物語後半のほとんどを費やす怒濤のカジノシーンを一気に読み切れました。『カウボーイビバップ』第3話のデータが埋め込まれた賭けチップと設定がかぶるけど、あそこまでやれば、パクリと文句はいわれないでしょう。

さて、この『マルドゥック・スクランブル』において、いちばん魅力的な存在といえば、ウフコック(煮え切らない)という名の、人語をしゃべるネズミ型万能兵器と決めつけても異論は少ないと思われます。普段は金色の毛並みのネズミなのですが、使い手の要求によって銃器やシールドにターン(変身)するウフコック。名は体を表すという言葉通りに、ウフコックが使い手の少女にみせる態度の煮え切らなさは、多くの読み手を悶えさせたことでしょう。

僕も悶えた(笑)  ネズミ萌え。

Ufcook
 ▲今は亡き我が家のウフコック様。ツメがラブリィな彼の本名はマンセル。

実際、数年前までスナネズミと一緒に暮らしていたのですが、どうして自分はネズミが好きなんだろう?と船に揺られながら改めて考えてみて

「もしかしたら幼い日に大好きだった『トムとジェリー』の影響じゃねぇ?」

と思い当たりました。——そういえば猫も好きです、犬より。

とすると、僕は現実の猫やネズミよりも先に、アニメの猫やネズミと出会って好きになったということですね。こう思った瞬間に——人間の連想記憶とはなかなか優れたもので——何年も聴いていなかった曲の一節が脳内で再生されたのです。

生まれて初めて見るものはいつでも テレビからで…

ああ、スパンクハッピーの『チョコレート・フォークソング』だ!
やばい、いますぐ、この瞬間に聴き返したい!
しかし……ここは自分の部屋じゃなく太平洋上の船のなか。

なんとかしてよドラえも〜ん!

……と。いや、ドラえもんを呼ぶまでもなく、あるじゃないか、
いくら詰めこんでも大きさも重さも変わらない音楽の四次元ポケットが!

(ジャーン) あ い ぽ っ ど〜

リュックの中の60G iPodの存在を思いだして、
僕はすぐさま取り出しクリックホイールを回したのでした。

20060829_mardock_1

「自分の持ってるCD全てを軽々とポケットに入れて、いつでもどこでも」
そんなiPodのコンセプトを、
これでもかというくらい鮮やかに実感させられました。

次は「自分の本棚をポケットに入れて、いつでもどこでも」という未来を! 
僕が生きているうちに……と狂おしいまでに激しく希望!

Googleあたりが「図書館をサーチして端末に呼び出す」という形で実現しそうだけど、船の上って携帯電波も圏外なんですよね(汗)

今回は「容れ物」という伝統的思想を進化させたiPodならではの活躍でした。
そういう読書端末が欲しいと海の中心でワガママを叫んでみます。

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2006年7月13日 (木)

ゼーガペイン#15 リインカーネーション

今日のゼーガペイン——

やってこない夏休みの終わり。
「あなたは舞浜の夏を
100回以上生きているのよ」

で、

涼宮ハルヒを思いつくヤツはガキ

ビューティフルドリーマーを思いつくのはオヤジ

……え? 僕ですか?

神林長平マニアの僕としては
『甘やかな月の錆』早川文庫『言葉使い師』所収)
は外せませんね、やっぱり。

「ぼくのママはきれいなひとだ。」から始まるあの小説。

ほんとうに愛している人を腕の中にいだくため。
——ループから抜け出したからそう思えたのか?
——そう思えたからループから抜け出せたのか?
行き着く先にあるのは、錆びつくこと、汚れることを許された世界。
「コム、あなたはわたしの子供じゃないみたいよ」

神林は「雪風」と「海賊」しか読んだことがないなぁ、
という人にもぜひ触れてほしい、神林長平の別の顔です。

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2006年6月28日 (水)

フラッタ・リンツ・ライフ

6月26日(誤認してました。25日だったらしい(汗) )は、
森博嗣の『スカイ・クロラ』シリーズ最新作の発売日でした。
空色、茜色、灰色ときて、4作目の『フラッタ・リンツ・ライフ』は
何色の雲海で表紙を埋めるのだろう、と期待しながら書店に向かいました。

正解は、紫色。

ジミ・ヘンドリクスのパープルヘイズが、脳内で自動再生されるような紫色。そして、何日かかけて読了し、全く期待を裏切ることのない出来に舌を巻いているところです。

今回のベストシーンは、p78〜79。
戦闘機の格納庫の天井に引っかかった模型飛行機に気づいて取りはずしたクリタが、その飛行機を飛ばそうとプロペラのゴムを巻くところ。「子供の頃は、ちゃんと数を数えてゴムを捲いたのに、どうしてこんないい加減な人間になってしまったのだろう」と思うところから、p79最後の行、「どうして、こんな良い子なんだ?」と思うところまで。

最高に良いシーンです。もちろんそれは、この2ページを引用してみせてもわからないたぐいの——『スカイ・クロラ』シリーズの既刊3冊を読み、この『フラッタ・リンツ・ライフ』を読んで、はじめてしみてくる良さなのです。

……と、言うからには、ちょっとシリーズについて説明しなくてはなりませんね。

『スカイ・クロラ』シリーズは、出版社の解説によれば「戦争を仕事にしなくては生きられない子供たちの寓話」とあります。もちろんそれは正しい説明なのですが、実際に読み進めていくと、じつは「戦争でなければ死ねない子供たちの寓話」でもあると気づかされるのです。

戦争が国家を離れたショーと化し、民間企業が代行して戦闘機による空中戦を行う世界。そこでパイロットとして登用されている子供「キルドレ」は、歳をとりません。時間制限をまぬがれた命を手にしている……というより、背負わされている者たちが選択するのは、殺さなければ殺されるかもしれない戦闘機乗りという職業なのです。

不老の存在が生の実感を感じられるのが、いつ墜とされるともしれない空を飛んでいる時だけだ、というのは、普通人の僕にもなんとなく想像がつきます。それは不死ではない僕らにも、自分が何に傷つくのかを知らない(怖い物知らずな)子供時代があったからだと思います。

 恐ろしいものの形を
 ノートに描いてみなさい
 そこに描けないものが
 君たちを殺すだろう

 (「吹雪」作詞・曲:中島みゆき)

そう、こんな歌もありました。
自分の死の形を死の直前まで知ることができないのは一つの真理です。

たとえば、望むもの全てを当然のように手に入れてきた美しく利発な少女が、たった一度の失恋で自我を崩壊させてしまうようなことも「死」の一種でしょう。

自分自身が「望まれないもの」とされたとき、それまでの彼女にとって人生の「視野外」であり「存在しない場所」だったところに突き落とされてしまうわけです。ほんとうに命を落とすわけではないけれども、人はそれも「死」と呼びます。心の死、社会的な死……死にながら生きてかなければならない死。

そんな「死」の存在を知らずにいられるうちなら、僕らは不死の子供でいられるような気がします。実年齢とはかかわりなく。

『スカイ・クロラ』文中に、キルドレのパイロットが同じ空気を漂わせる者に「怒っているようにも、喜んでいるようにも、見えない。感情がない、感情のスイッチを切っている、そんな様子だ。やっぱり、同じ種族。僕たちは、そういう人間、そういう子供なのだ。でも、仲間に出会えて嬉しい、といった感情でさえ、僕たちにはないのだから、つまり無意味。理屈がさきにあって、その理屈で感情がある振りをする。ずっとそうしてきた、子供のときから。」という場面があります。

もしその描写をまるごと信じるなら、彼には子供時代がない、と言えるでしょう。

僕が思うに、許される限りわがままをつくすのが子供で、たしなめる者がいなくても自分を律する基準を超えないのが大人です。キルドレの感情には生まれながらのリミッターがかかっているようで、つまり彼らは「子供=キルドレ」という呼び名とは逆に、最初から大人なわけです。

ところで本来のリミッターとは、エンジンが回りすぎて壊れないよう、回転数に制限を掛ける装置の名前で、機械にとっては故障せずに空を舞い続けるための実用性をもった装置です。しかし、人間は感情にリミッターをかけたからといって、しがらみだらけの社会を故障せずに泳ぎきれるとは限りません。

そんな複雑な人間関係のなかで、相手の真意が計れず疲れ果ててしまった時など、機械的な「正解のある」明快さに憧れてしまうこともあるでしょう。——そんな時こそ、この『スカイ・クロラ』シリーズのページをめくるタイミングとしてはうってつけかもしれません。


 森博嗣『スカイ・クロラ』シリーズ

 『スカイ・クロラ』
 『ナ・バ・テア』
 『ダウン・ツ・ヘヴン』
 『フラッタ・リンツ・ライフ』(すべて 中央公論新社 刊)

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2006年5月30日 (火)

次の発車と今度の発車はどちらが先?

次の発車と今度の発車はどちらが先?
……というタイトルなのに話題としては投げっぱなしです。表示を「先発/次発」に改めれば済む話なわけで、実際にしようとしてるのはすごく個人的な起床時の話です。スイマセン。

今朝目覚めのきわで見た夢に「前の」恋人が出てきて

……なんて書くと「今の」恋人がいるみたいな感じだけど、
実際そうじゃないし

こんなどうでもいいささいな言葉のニュアンスに気づくと
ふと、文章の「言外」とか「行間」の効能ってものについて
妙に真剣に考えだしてしまったりするのです。

答えなんて出ないんですけどね(苦笑)

忘れないうちにメモった夢の内容はこんな感じです。

つげ義春の漫画に出てくる目医者ばっかりの街みたいに
どこもかしこも、店という店がすべてパスタ屋の街で
恋人とお昼を食べる店を探してるんだけど、どこも満員。
ぜんぜん店に入れないんだけど、なんか気分が楽しく浮き立っていて
その人ともう年単位になる過去に別れていることは
目覚めるまで、すっぽり記憶から抜け落ちたままで……

こんな象徴に満ちた夢をみてしまうと
学生時代フロイドに傾倒していた僕は
すぐさま次のような分析をしてしまいます。

 全部同じ店、そのうえ入れない
  
 選択しようがない or 自分では決定済みの状況だが、
 その選択肢ではうまくいかない。

 別れた恋人だけどその認識がない
  
 姿を借りてるだけで無意識が別人の役を割り振っている

これはまるで新しい恋に落ちたばかりの人間の無意識だなぁ
と思うのですが、現実にそんな気配はまったくなくて (ノ∀`)

ああ、今日は所沢に講義に行く前に練馬の税務署に寄って
江古田文学の青色申告してこなくちゃなぁ……
で、授業が終わったら互助会の会議のために江古田に戻らなくっちゃなぁ、と
相変わらず仕事に追われている日々だったりします(´・ω・`)ショボーン

ぐあー 小説書く時間が欲しい。
先週遅ればせながら、小川一水『老ヴォールの惑星』を読んで強い感銘を受け
やべー、自分もこういう小説が書きてぇー、と
ものすごく創作欲が高まってるところなのです (`・ω・´) シャキーン

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2006年4月14日 (金)

授業開始・記憶と記録の話

関越自動車道・所沢インターへの誘導路脇に桜の林があって
一週間前に満開だった枝に、もう緑の若芽が混じりだしていました。
つまり天気に恵まれたので、
バイクで所沢に出校したというわけで——

さてさて、本年度最初の授業。文芸特殊講義IXです。

今日は授業選択のガイダンス的な意味もあるので、

パソコンやネットっていうのは、
 際限なく増えていく記録をうずもれさせないために
 生み出されたシステムなんだ

ということをかいつまんで話したつもりです。
もちろん芸術学部は、何かを総括して世界の全てが分かった気になるための場所ではないので、それをどう創作に結びつけるかという部分が大切なポイントです。

そこで、
うずもれる記憶、というテーマと
パソコンという道具により、かつては不可能だった個人製作が
アニメの領域でも可能になった現状をあわせて実感できる実例として、
ペイル・コクーン」を観てもらいました。

記録自体は真実でも
ありかを変えてしまうだけで
人々をだますための道具になってしまう——

その種の危うさや儚さが、
記憶の属性のひとつであることは否定できません。
そこを突くことに成功している作品のひとつだと思います。

作品を見せる前に、うずもれる記憶に対抗する手段としての検索エンジン・Googleと似た機能をネットの「こちら側」に実装している例として、Macのスマートフォルダを紹介したんですが、ちょっと上手く行かないうえに分かりづらいデモをしてしまいましたね(反省……家に帰ってからかなりヘコみました)

スマートフォルダの便利さと背中合わせの怖さは、
自分が入れなくても条件に合ったものが新たに発生したら、
(検索エンジンのクロールと同様に)
愚直に拾い集めて入れておいてくれることです。

なので、
一週間以内に変更した画像(ダウンロードしたり開いたりしたもの)
という条件で、スマートフォルダを実演して見せれば
もっとわかりやすかったかもしれません。

実用例を挙げてみます。
スマートフォルダはどこにでも作れるので、Mac使いの恋人がいる女性は、彼氏のMacの気づかれにくい場所に「画像・一週間以内」という条件でスマートフォルダを作ってみてください。

次に彼氏の家に行った時、
そのスマートフォルダの中に何が入っているかお楽しみ!

…って、マジでやらないでくださいね。冗談ですから。
世の中には知らないほうがいいことがたくさんあるのです(汗)

知らないほうがいいこと…といえば、こないだ芥川賞をとった絲山秋子の『沖で待つ』は、どちらかが先に死んだら、誰にも中を知られないように相手のパソコンのハードディスクを破壊する約束をしあう話でした。

それで、ふと個人的なことを思いだしたのですが、昔つきあっていた彼女のパソコンのハードディスクがよく異常をきたすというので、前もってバックアップをとってから、新しいハードディスクに交換してあげたことがありました。

僕はクソまじめに(あ、iPod用の曲データだけはもらったけど)彼女のバックアップ・データを作業完了後すぐさま完全消去したのですが——

それって逆に、

「なんだよ実用的データだけ欲しがって、
 私のメールとかのプライベートには全く興味もないのかよ!?」

とか思われてたかもなぁ、なんて、今になってかえりみたりするのですが

……まぁ、たいていそういうのは考えすぎってやつですよね〜(汗)   

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2006年4月13日 (木)

ゼーガペインとすぺるむ・さぴえんすの冒険

先週の第一話を観て「これを押井がやったら」という定型句というエントリを書くきっかけになった「ゼーガペイン」ですが、どうやら先週の僕の予想通りの世界観のようです。

仮想現実というと、いまだに
「マトリックス的な」という説明がキャッチーに通じてしまうわけですが、
案外SF小説では使い古された(良く言えば、歴史ある)アイテムでもあります。

そこで僕が今日のゼーガペイン2話を見終えたところで想起したのが
小松左京が1970年代に書いたSF小説
「すぺるむ・さぴえんすの冒険」
(短編集「ゴルディアスの結び目」に収録)でした。

太陽の異常で生命が維持できなくなった地球環境を脱出し、データ化した全人類と地球環境を携えて宇宙を彷徨う巨大な情報宇宙船。船内には「再生装置」によって幻出された街の環境がある。そこで一人だけ肉体をもった本物の人間として存在しているMr.A。彼は夢の中で超越的存在から、220億人の人類のデータを消去することと引き替えにした、ある取り引きをもちかけられる……

というストーリー(いまざっと読み返して書いてみました)なのですが、220億という数字以外はハッキリと覚えていました。それだけ鮮烈な小説だったのです。

そして、こりゃ、Mr.Aの「小間使い」を「メイド」に書き替えるだけで21世紀レベルで充分通じるよ、てゆーか小松作品を映像化するなら、詰め込みすぎで世紀の怪作になってしまった「さよならジュピター」より、こっちを映画化しとけばよかったのに——と思わずヒートアップしてしまいました。

そういえば「日本沈没」って、また映画化するんですよね。
小松御大の小説はスケールがでかすぎるので、
大作を映画化するのは、今の日本の技術をもってしてもヤバいような気が。

「すぺるむ・さぴえんすの冒険」ぐらいの
コンパクトにまとまった作品の方が絶対映像向きだって!

もちろん小間使いはメイド服で

……すいません小松先生。アホ発言でした(汗)

僕の手元にある「ゴルディアスの結び目」は中学生のころ(20年以上前ですな)買った角川文庫1980年版で、もう絶版ですが、運良くハルキ文庫で再刊されているので[→Amazon] 1970年代SFの輝きを知りたいという若い世代がいたら、忘れずチョイスしてほしい逸品です。

「岬にて」(宇宙船ではなく、ドラッグによるトリップで宇宙へ)
「ゴルディアスの結び目」(少女の性的虐待の傷がエルゴ領域化)
「すぺるむ・さぴえんすの冒険」
「あなろぐ・らゔ」

の4篇が収録作品です。それぞれ無関係な作品として読めるのに「すぺるむ・さぴえんすの冒険」で×××な運命を迎えた人間の情報の一部が「あなろぐ・らゔ」につながっているんだ、と気づいたときの「やられた」感といったら! ……いまだに呪縛ですよ。

そういえば個人製作アニメ「ペイル・コクーン」って、この2作品連続ネタの構造と、舞台は違えど「やろうとしていること」が似てるなぁ。もしかしたら吉浦さんも、かつて「ゴルディアスの結び目」に親しんだ人なのかも……とウェブサイトのプロフィールを見たら、僕より10歳も若いのか! これはカスってなさそうですね(汗)


えー、脱線しすぎたので話を「ゼーガペイン」に戻しまして
(と言いつつ、また日本のSF小説の話になるんですが)

神林長平の火星三部作「あなたの魂に安らぎあれ」「帝王の殻」「膚(はだえ)の下」を読了している人なら、きっと「ゼーガペイン」のオープニング&エンディングの画が味わい深く見られることと思います。

去年やっていた烏龍茶「極烏」のCMで、キムタクの身体が鳥に変化して飛び去っていき、着ていた服が中身を失って崩れ落ちるシーンは、「あなたの魂に安らぎあれ」を映像化したら、「あの」シーンはこうだろうなぁ、という美しさでしたが、ゼーガペインのオープニング&エンディングの登場人物の身体が無数の鳥や魚に分解して飛散するグラフィックスにも同じ印象を受けました。

これ以上書くと、
今度は神林長平の小説のほうのネタバレになるのでここまでにします。

ちなみにゼーガペインのオープニングテーマ曲
「キミヘ ムカウ ヒカリ」ですが
この歌詞、かなりネタバレ領域に踏み込んでますよね。

誰かが見ているビジュアル 
目の前の急な水がカラダを逆さに駆け巡る
今二人は出会った意味を想う
きっと誰かの記憶の中泳いでいるだけでも

君の背中、光の羽が空へ広がる
どんな場所もどんな過去さえも
唯一つの願いが乗り越えてゆくよ

誰も知らない世界にキミと居る
届かない言葉のかわりに黙り込む
そうして何度もキミに恋するだろう
遠い約束 闇を蹴って羽ばたいていく時まで

自分の生涯が初めて経験していくオリジナルの現実ではなく
記憶から再構成されたものだとすると、
きわめて内容に合致した歌詞。

エンディングテーマ「リトル グッド バイ」にも
「時が戻ったら 時が戻ったら 時が戻ったら」というリフレインや
「記憶の淵で時は繰り返す イメージを見た」という詞があり、
筋の通ったコンセプトが感じられますね。

そういったところも含めて、最近のアニメとは力点のズレた
心地よい古さがあるんですよ、このアニメ。
主人公も前向き体育会系だし、80年代の匂いがプンプン。
1970年生まれのオールドタイプである自分は視聴続行決定です(笑

さて、明日から日芸の新年度授業開始。

今年の授業開始日は金曜日ということで、
いきなり文芸特殊講義IXの講義が待ってます。
積極的にセカイの動きにシンクロさせていくのが身の上の授業なので
僕の持ちゴマの中でいちばん緊張する講義です。

うーむ。今年はどんなオープニングで行こうかな…

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2006年3月26日 (日)

エウレカセブン
最後から二番目のハッピーエンド
&自分が殺される瞬間を撮ったカメラマン

『交響詩篇エウレカセブン』全50回、ほぼ一年にわたる長い物語も、来週でフィナーレ。主題歌「sakura」の歌詞のように「明日からは別々の道 てそんな突然心の準備ができない」って感じですよ本当に。終了後はもう日曜朝の早起きなんてできない予感(汗

このアニメについては賛否両論(世間一般的には否のほうが多いかな?)入り乱れていますが、なぜ自分はこんなにハマってしまったのか、という結論から言うと、それは「心理的チラリズム」の効能でしょう——というひと言では説明不足なので、最終回マイナス1の今回の放映を回想しつつ語ってみようと思います。
(未見の方スイマセン。ネタバレは避けられそうにないです)

じつのところ、エウレカセブンは、
観ていて「もったいない」と感じることが多いアニメです。

世界を支える大仕掛けとして、『猿の惑星』のように「別の惑星の話と思いきや、じつは地球だった」パターンを採用しているのですが、それが判明する回は、世界の成り立ちが明かされるカタルシスを捨ててまで主人公カップル・レントンとエウレカのギスギスした痴話げんかを描写! 

なぜここで、SFの名篇、ディックの『最後から二番目の真実』や神林長平の『あなたの魂に安らぎあれ』のように「世界の真の相貌の出現」を鮮やかに演出しないのか、もったいない!と、苦言を呈したくなってしまうのです。

でも、僕なんぞが「こうしたほうが良い」という案なんて作り手はとっくに検討済みだろうし、演出の定石を捨てることによって見せたい別の何かがあるのではないか?という気持ちに、不思議とさせられるのもまたエウレカセブンなのです。

例えば、リーダーのホランドは、理由もなく主人公レントンに当たり散らすDV暴君のような描写で視聴者の好感度を地に落としておいてから、そこに隠された意図がレントンに伝わる場面を戦闘アクションの盛り上がりに結びつけるなど、カタルシスにあふれた出来映えな回があるので、毎週見逃すことが出来なくなってしまうのです。きっとまたやってくれる、というかすかな期待で。

鬱々とした話をくどいくらいに続けて、カタルシスが訪れる回とのコントラストでさらに輝きを倍増させるという効果も計算済みなのかもしれませんが、打ち切りもありえるテレビシリーズ物として、それはとても危険な構成です。

だから、意図してそうなのではなく、天然でそういう演出しかできないコアスタッフである可能性も否定できません。

で、今回の48話「バレエ・メカニック」

神は細部に宿ると申しますので、ネタばれを回避するため途中を全部すっとばして言うと、もう鬱な結末しかないと思われていた二人、アネモネ&ドミニクに予想をくつがえす展開が……

eureka48

エウレカ世界の最新流行はやっぱり、
落下しながら告白。これだね。
ただしこれを決めすぎると
主人公カップル・エウレカレントン組のことなんて
みんな忘れてしまうという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦めできない。

——などと使い古された吉野家コピペ口調で茶化してしまうのも、
この場面を脳内再生するとうっかり泣きそうになるくらい(汗)
良いシーンだったからです。

こんな劇的な再会で、
そのままだと墜落死なシチュエーションで
口にする言葉が

「アネモネ! その、えっと……久しぶり」

って、ドミニクおまえは俺か!っていう
非モテ系おバカっぷりですよ。
なんだそのリアル(笑
泣けるじゃないかちくしょう。

今回は、
この、ほとんど主役をかっさらった勢いの二人以外にも、
唐突にモヤモヤを晴らしてくれたキャラがいます。

今までの分を取り返すようにハイスピードで二人が愛を確かめあっているところへ、こともあろうに衛星軌道兵器・オラトリオ8のビームを照射しようとしている軍司令官デューイです。(スカブコーラルの核にオラトリオの標的ビーコン打ち込むのがアネモネの仕事で、それ自体は完遂しちゃってるので当然といえば当然なのですが)
「アルティメット出力で照射するとオラトリオが自壊してしまいますが、構いませんか?」という部下の進言に「君の望む世界に、あんなものが必要なのかね?」と返したデューイ。

僕はこのセリフひとつで、デューイは決して破滅主義者ではなく、すべては彼なりの信念に基づいた「ハッピーエンドの形」を思い描いた上での行動なんだということが、急に理解できました。 求める世界に武器はいらない、と

前回までにデューイが何度も繰り返してきた「地表を覆うスカブコーラルを殲滅して我々の母星を取り戻しましょう」というプロパガンダはいかにも安っぽくて、正直、ちゃちな悪役にしか見えなかったのですが、 その一面で片づけられない部分を、今回のセリフのような形で突然「ちらっ」と見せる……こういう演出の手管がすごく多いアニメなんですよね、エウレカセブンって。

話の作り手(監督とか脚本家級のコアスタッフ)の中に、悪い人に引っかかってひどい目にあい続けるんだけど「無防備な一瞬にみせる素直なところとか、人づきあいが不器用なせいで誤解されて苦しんでいる姿とかを見ると、放っておけない」という「全自動ダメ女(or男)擁護機能」をアンインストールできなくて、苦労が絶えない人がいるとみました。

そういう属性を持つ人は、暴虐の連続の中にふと現れる「ちらっ」という優しさや素の表情にヤラれやすいんですよね。DVダメ男のホランドとか、今回のデューイとか、ツンデレ回路発動したアネモネとか、なぜかエウレカセブンにおいては「心理的ちらっ」の、これでもかという大サービスぶり。

僕がこのアニメにやられっぱなしなのは、きっとそういう性なんだと思いますが、自戒をこめて「悪女の不器用さなんて、惚れてる人以外の目にはワガママにしか見えない」という真理を書き加えておくのを忘れないでおきましょう。これが恋愛恐怖症クオリティ(苦笑) もっとありていに言えば、エウレカセブンは「対象:じらされるのが好きな人向け」アニメかもしれません。そうじゃない人にとって、これほどイラつくアニメはないでしょうから。

スカブコーラルをナウシカにおける腐海とみると、デューイは巨神兵で腐海を焼き払おうとしたクシャナの劣化コピーにしか見えないでしょうし、地下に本来のクリーンな地球が復活しているという世界構造もよく似ています。アラ探しが趣味の「批判家」がいっぱいのネット上では、とかくそういう点で叩かれやすいのですが、ツッコミどころを全部スルーして泣けた自分はラッキーだったと言うしかありません。

——というのをさらに強く感じたのは、たまたま夕刻、
  全く別種の「人が泣く場面」に出くわした時です。

日テレの「真相報道バンキシャ」を観ていて、チェチェン紛争で自分が殺される瞬間を撮影したカメラマンの最後の8分間のテープが流された後でした。コメンテーターで来ていた漫画家の倉田真由美の泣き顔のアップに……

僕は怒りさえ覚えましたね

このタイミングで司会の福沢朗が、このカメラマンに対して「ジャーナリストのしての使命感が……」などと言いだすものだから、もはや報道人の自己讃美にしか聞こえず怒り心頭! 何の圧力がかかっているのか知らないけど中国のチベット虐殺を報道しないおまえらがジャーナリズムの使命発言をするなど片腹痛いわ!と、一人でテレビを相手にヒートアップしてしまいました(汗)

なぜ僕があの映像を見て泣く人間を許せないかというと、
あのテープの中に記録されている「貴重な情報」を
まったく読み取っていない
(読み取る姿勢さえない)からです。

彼にあったのは報道者としての自己犠牲の精神なんかじゃありませんよ。完全にヤバい状況に陥ったことに気づくまでは、使命感や功名心も含めた「カメラマンとしての欲望」で身体が動いていたと思いますが、道路を挟んだ銃撃戦のなかに取り残されて、車の影でビデオカメラを回し続けた8分間の映像は、彼の「この状況からどう生還するか」という抜き差しならない「生死をかけた闘い」の記録なんです。

SONYcap
8分間のなかに「SONY」と刻まれたレンズキャップが偶然かぶさってしまったまま音声だけ記録されている時間がかなりあって、カメラにかまわず伏せて息を詰める動作に必死な様子が感じられます。彼が着ている真っ赤なセーターは、あえて民間人の報道者であることを示すものだったのかもしれませんが、もはや「だから撃たないでくれる」という免罪符にはならず、逆に標的として目立つ状況にあるという判断はなされていたのでしょう。やがて近くに車が止まるブレーキ音がして、状況を確認しようと動いた彼を狙撃手は見逃さず、まず足を撃たれてしまいます。セーターを脱いで太ももを縛り止血しようとする様子が揺れる画面の端に映り、その鮮血の赤の鮮やかさから動脈がやられたことは確実で、そのままだと失血死してしまうという彼の現実的判断が読み取れます。しかし、その動作で場所を悟られたのか、まもなく車を貫通する銃撃でとどめを刺されてしまいます。

この映像が突きつけてくるのは
「もし自分がその状況に置かれたらどう行動するか?」
というシビアな問いです。
だから、ちゃんと映像のメッセージに反応していれば、
泣いているヒマなんてないはずなんです。

コメンテーター・倉田真由美の涙は、
明らかに「他人事として見ている」証拠でしょう。

自分の命を大切にできない人間に他人の命を尊重することはできない。その現実的な第一段階をクリアせずに戦争の悲惨さを訴えても、しょせん、地に足がついていないきれい事にすぎません。

ま、しかし、

あの映像で泣いてしまった人に怒りを覚える人もいれば、
エウレカセブン48話を五回見直して三回目まで泣いた(恥)僕を
嘲笑する人もいるでしょう。

自分が殺される瞬間を撮影したカメラマンの最後の8分間で泣いてしまった人には、ぜひ村上龍の『五分後の世界』を一読したのちに再びあの8分間の映像と向き合って、刻まれた「情報」を読み取ってほしいと思うのです。

『五分後の世界』は第二次世界大戦で降伏せず、1994年に至って人口23万人に減少してもまだ戦い続けている、パラレルワールドの日本に迷い込んだ男の話です。「どうして戦い続けているんですか?」という問いに対する司令官のヤマグチの答えのなかに、ニューギニアやガダルカナルで戦った兵士たちは、日本の歴史上ほぼ初めて具体的に海外とかかわった人たちであり、生存さえ困難な状況で戦い続けたなかで彼らが得た情報をムダにすることは絶対に許されない。その民族が生きのびていくためには次の世代に大切な情報を確実に伝えていかなくてはならなず、そのためには戦いつづけるしかなかったのだ——というくだりがあります。

ぜひ原文で読んでほしいのですが、そこには人間の生存に欠かせない要素と戦争の原因となる要素の両方が存在し、並び立つ現実に嘘やごまかしが介入していないことが伝わってきて愕然とさせられます。つまり、戦争は、たぶん、永遠に、無くならない。

しかし「自分が生きのびること」の肯定が、そのために自分以外を蹴落とすのではなく、共に生きていく方向に帰着するよう努めることは可能です。

「生きよう、一緒に」

エウレカセブン48話が示したのはそんな可能性の一端だったと思います。
あれは具体的方策がないご都合主義だって?
それはテレビの前を離れた僕らのリアルで考えればいいことじゃありませんか?

今回が最終話なら「素敵なハッピーエンド」でしたね。
でも来週の、ほんとうの最終話には、
「現実的なハッピーエンド」を見せてほしい。

もしそのハードルを越えてくれたら
『交響詩篇エウレカセブン』は「神アニメ」認定です。個人的に。

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2006年3月15日 (水)

メガネスキー・サドンデス敗北

先日入手した、街のオシャレなメガネ女子スナップ本『ガールズメガネ』を使ったゲームを思いつきました。

その名も
「メガネスキー・サドンデス」

ルールは簡単。勝負する二人が、この本に載っている55人のメガネ女子の中から、あらかじめ最高のお気に入りを一人決めておき、お互いに相手のNo.1が誰かを当てあうという明快さ(笑)。テレビの「食わず嫌い王選手権」の逆バージョンですね。

ところがここで問題が。
この本、写真ページにノンブル(ページ番号)がふられてない!

つまり「食わず嫌い王」のように
「先手、披露!」ジャーン「26ページのコ」「判定!」「……参りました」
という段取りがとれないのです。

というわけで、ページを開いて「これ?」と尋ねるという地味な競技にダウングレード(笑)

060314

さっそく先手のd女史が、パラパラと『ガールズメガネ』をめくっていきます。僕は余裕で、なかなか当たらなかったらどんなヒントを出そうかな、なんて考えていたのですよ——残りページ5分の1くらいにさしかかったところで、d女史が僕のお気に入りのページをめくる時までは。

ピシィッ!と効果音が出そうな勢いでd女史の指が動きました。

「これ!」

Σ(゚д゚lll)なんですと!? 

アナタ、まだ全員見終わってないのに、
その子で確定していいんですか?
((((;゚Д゚)))…

((((;゚Д゚)))ガクガク
((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル

な、なんでわかったんだ?

その瞬間「じつは普通の人間はすべてテレパシストで人の心が読めるんだけど、僕を含めた不感応者がかわいそうなので黙っているだけなんだな」という壮大な被害妄想までしちゃいましたよ。気分はもうサトラレ状態。後手の僕はもうメロメロ。5人目の候補を出してもハズレというダメっぷり。

いやはや、この人生で直面したあらゆるジャンルの争いにおいて、
これほどまでに完璧な「負け」は初めてです。いやはや。

というか、いくらd女史とのつきあいが長いとはいえ、
なにか自分で気づいていないバレバレな嗜好があるんでしょうか?
ひとりウチに帰ってきてからも僕は首をひねりつづけました。

一夜明けて今日、研究室の昼休み、スタッフT氏に「メガネスキー・サドンデス」を挑みました。これでまた瞬殺されたら、人生考え直さなくちゃなー(どういうふうに?)という心境です。結果、普通にお互い外しまくって、普通こうだよなぁ……と安心したのもつかの間、正解のコのページを見せると、スタッフT氏はこう言ったのです。

「ああ、そういう線か……そのコ、青木さんに似てますよ」

——はぃ? 似てるってどこが?

「いやフツーに見た目の感じが」

えええーっ! 一発で当てられた理由を検証した時、まったく自分にその発想はなかったのだけど、そりゃ、なんというか最高にキモイ(汗)。キムタクが横須賀功光・撮影の写真集で女装した顔が工藤静香に似ていて、彼女と結婚した理由に合点がいった時と同じくらい、いたたまれない気分です。この先にあるのは山本英夫のコミック『おカマ白書』的バッドエンドですよ。あるいは今もヤングアニマルで連載中の宮野ともちか『ゆびさきミルクティー』の由紀/ユキなみに最低な男ですな。

……と一瞬マジでヘコみましたが、

     まぁ、ひらきなおってもいいじゃないか。
         にんげんだもの

ここは極限まで開き直って、今度は
a girl like you 君になりたい。
でも買ってきましょうかね(爆)

like_you

君になりたいというタイトルで
小西康陽さんに帯を頼むところがあざといですよね(笑)

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2005年12月 5日 (月)

「うろおぼ絵」でスポック

Spock昨日「コバヤシ丸テスト」のことを思いだしてからというもの、すっかり『スター・トレック』を懐かしむモードに入っております。

今日はウチに帰ってくるなりMacのillustratorを起動して、記憶を頼りにマウスをぐりぐり動かし、ベジェ曲線でMr.スポックの「うろおぼ絵」を描いてみました(所要時間5分)

スポック役を演じたレナード ニモイの著書『わたしはスポック』の表紙をAmazon.co.jpで確認し、それほど大きくハズしてないのに安堵して恥ずかしながら載せてしまうのですが(笑)、これは眉、髪型、耳など、スポックのキャラが見た目にも立ちまくっていたゆえの、レナード ニモイ側の勝利でしょう。僕の記憶力や絵描き能力などは微々たるものです。

さて、『スター・トレック』と並ぶ宇宙モノといえば、いまだに高い人気を誇る『スター・ウォーズ』シリーズがあるわけですが、スタトレの「コバヤシ丸テスト」よりも、はるかに『スター・ウォーズ』の「ジェダイ」や「フォース」といった「用語」のほうがメジャーなわけで、どうにも歯がゆい思いが湧き上がります。

『スター・トレック』に何が足りなかったんでしょう? 
やはりロマンス?
ムムぅ、そればっかりは……論理的で7年に一度しか発情しないヴァルカン人のスポックがメインキャラじゃ(笑)とあきらめムードにひたりつつ、自分のMacの中をSpotlight(文書の中味まで検索できるMacの自己サーチエンジン)でいろいろ検索していたら、『スター・ウォーズ』のレイア姫の中の人(キャリー・フィッシャー)が書いた小説を読んだ——という1998年のWeb日記を発見してしまいました。

しかし、恐るべきことに僕はホントすっかり忘れていて、
レイア姫が書いた小説があるということすら初耳のように感じたのです(汗)


1998.11.29
スターウォーズのレイア姫役で知られるキャリー・フィッシャーが書いた『ピンクにお手上げ』を読みました。とてもウイットに富んだ面白い恋愛小説でした。こんな書き出しなのだけど——

ダイナ・カフウマンは3回のセックスで処女を失った。大変すぎて3回もかかったというわけではなく、処女を失うことに何か意味があるんじゃないかと考えていて、3回目でやっと意味のあるセックスに出会ったような気がしたのだ。

主人公のダイナは、恋愛とは居心地が悪くて神経が疲れて落ち着かないものだという妄想というか思い込みに悩んでいるワケですが、すべてが行動に直結するところがすがすがしい。ちなみにぼくはその妄想から逃れたとたんに恋愛欲が50%くらいリストラされてしまったぞ。困ったものだ。

まったく困ったものです。他人が書いた捏造日記なんじゃないかと真剣に疑うくらいぜんぜん思いだせない(汗) Amazon.co.jpで確認しても『ピンクにお手上げ』なんて本はないので、これは夢日記確定か!? とも思ったけれど、徹底的に調べたら絶版になっているだけでちゃんと文藝春秋から出ていたらしい。

となると、今現在のこの僕は
1998年の僕とは連続していないという結論でOK?

スポックならそうみなすだろうな。彼の論理的な言葉によれば
「差異を生じない相違は、相違ではない」のだから。その逆証明。

——そんな調子で、どんな場面でも感情を排して論理的判断を下すスポックだからこそ、『スター・トレック=ザ・モーション・ピクチャー』(ノベライズ版)のラストシーンのセリフみたいな「例外」が最高に生きてくるんですけどね。


 クルー「艦長、進路を決定してください」

 カーク艦長「向こうだ。あっちのほうさ」

 Mrスポック「最高に論理的な選択です、艦長」

……スポックかっこいいよスポック。
 今さらDVD買っちゃおうかな。もう1600円以下で買えるし。

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2005年9月27日 (火)

インターセプター、じゃない。

朝イチのメールチェックのついでの思いつきクリック、そこで——

先週のエントリ「欲望の私的指摘なGoogle検索」でとりあげたライトノベル作家・桑島由一さんのサイト「clearloversoul*」が、ものすごく久しぶりに更新されていることに気づく。

そして、書き足されたフィクショナルな日記の中に


 誰かが死んだとして、それを僕が知らなければ、その相手は
 永遠に生き続ける。今頃なにをしているんだろうと、想像の
 中で彼(彼女)は健やかに暮らす。
 つまり僕は、彼女の死なんて知りたくなかったのだ。 

 (中略)

 抗えない。だから、僕は誰かの死なんて知りたくない。
 みんな、僕の知らない世界で永久に生き続ければいいんだ。

という一節を見つけて、ああ、やっぱりこの人だ、と思う。

優しくない自分は美しくない。
でも彼らの(彼女らの)美しく生きているさまが
ほんとうに存在しているのなら、
存在するすきまがわずかでもあるのなら、せめて
それを邪魔することなく生きていくことを「選択した自分」だけは
赦されたいと思う——

そんな、ささやかだけど意固地な願いを感じました。

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2005年9月22日 (木)

欲望の私的指摘なGoogle検索

だいたい一日100人くらいの方に見ていただいてる当ブログですが、昨日は一晩で1000を超えていたので、めずらしく(あんまり気にしない質なので、ほとんど初めて)検索ワードのアクセス解析をしてみました。

一番はやっぱり「インスパイヤ」ですか(笑)

検索ということで、ふと思い出したのが、
ライトノベル作家の桑島由一(くわしまよしかづ)さんが
自サイト「clearloversoul*」の日記で書いていた一節です。

「グーグルで「高いけど」と「が欲しい」で検索すると、
 世の中の色々な人が、色々なものを欲しがっていることがわかる。」


ああ、なんて詩的で、私的指摘な欲望検索。

「桑島由一」の名を知ったのは、担当ゼミの学生がレヴューの実習で俎上にのせてきたのが初めてだったのですが、サイトの日記を読んで、すっかり打たれてしまいました。恋人と別れ、悲しさに溺れて言葉の血反吐を吐きたくても、それを寓話に昇華するまでは書き言葉に出来ない。そんな物書きの哀しさが伝わってくるんですよ。ひしひしと。

そのころ偶然、僕自身も共感できる立場(汗)にハマっていたせいもあるかもしれませんが……でもいま読み返してみても切なくなりますね。桑島さんの日記は3月から止まったままですが、ときどき「clearloversoul*」をクリックするのは今もやめることができません。

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2005年9月15日 (木)

死して咲く花、実のある夢

終業後、新宿へ向かいました。
神林長平の新刊(といっても初期短編集で、絶版になった『時間触』からもいくつか収録している)『鏡像の敵』をまだ買っていなかったので紀伊国屋書店に行くついでに、iPod nanoの現物にも触れてこようかと思いまして(笑)

iPod nanoは思ったよりしっかり作ってありますね。小さなクリックホイール部分にもすき間がまったくなく、僕の持っている初期型iPod Photoよりずっと精密な感じがしました。疑問に思ったところは、HOLD操作がminiにならったのか普通のiPodと逆な点だけですね。すでに白いiPod2台所有してるので買いませんが、それでも物欲を刺激される出来だと言っておきましょう(汗) 黒が魅惑的。

さくらやパソコン館を財布を出さずに無事スルーして紀伊国屋書店へ。
文庫コーナーで「雪風」シリーズ2冊とともに平積みになっている『鏡像の敵』をまず手に取り、棚の神林長平の並びを見て、思わずその背表紙に目が止まりました。

死して咲く花、実のある夢

——久しく絶版になっていた傑作です。そのタイトルのとっつきづらさからか、それとも裏表紙に書かれたあらすじが、すごくバカバカしい話っぽい誤解を生むからか、あまり売れないままに絶版になっていたのですが、神林長平のベスト10を選べといわれたら、僕は絶対に外さないでしょう。棚から抜いて手にとると、以前とはカバーデザインが変わっていて、読んだことがある人なら「ああ、冒頭シーンのイラストだな」というのがひと目でわかる絵になっています。

もちろん初版を持っているのだけど、また買ってしまいました。

神林作品には、たいてい本の扉にエピグラフが掲げてあります。
『戦闘妖精・雪風』の「妖精を見るには 妖精の目がいる」は、ファンには非常に有名なところですが、この『死して咲く花、実のある夢』には、こんなエピグラフが掲げられていました。

この世には二種類の人間がいる。
死んでいることに気づいている者と、そうでない人間の、二種類。
自分の死に気づいている者は、当然ながら死んでいる。
死んでいることがわかっていない人間は
生を信じるがゆえに、やがて死を受け入れざるを得ない。
ようするにこの世は死者でいっぱいだ。

「雪風」のエピグラフもそうなのですが、読後、もういちど最初のページにある短いフレーズに触れたとき、それが信じがたいほどの圧縮率を誇るソフトウェアとして起動し、数百ページの時空間を1ページに埋め込んでしまうのです。

この本のエピグラフもそう。これから読むかもしれない人のために多くは語りませんが、「死とは何か」ということを、説明ではなく、ストーリーで伝えてくれることでしょう。

身近な人の死を経験したことがある人になら、もしかすると救いの涙をもたらしてくれる読書体験となるかもしれません。こんな書き方をすると、なんとなく、去年流行った「セカチュー」みたいですが——あれとは対極も対極、エクストリームなほど対極にある作品です。だから、読み手によっては、なんじゃこのヘンチクリンな小説は、と不興をかってしまうかもしれませんが……

僕は、これからもう一度、新しい本で『死して咲く花、実のある夢』を噛みしめようと思います。本を読破すると最後のページに鉛筆で日付を記すクセのおかげで、自分が前にこの本を読んだのが1996年12月3日であると知れますが、それから親しい友人の突然の死や、ものすごく長生きした飼い猫の死を体験したのちである今、このSF小説をどう読めるのか、楽しみな気持ちと、躊躇する気持ちとが半分ずつ渦を巻いてます。

どのみち、きっとまた、泣くんだろうな、最後で

sisite

右端が文庫初版本。中央が今回復刊したもの。

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2005年5月24日 (火)

今日買った本

ここのところ、夏のように夕立が来る日がつづいている。

所沢での講義の帰り、電車内で考え事をしていたら降りる駅を通過する電車から乗り換えそびれてしまったので、池袋で本をみることにした。駅から外に出ず行けるリブロで目当ての本が見つからなかったので、強い雨のなかをジュンク堂に向かった。

 ○今日買った本
 『ガラテイア2.2』
  リチャード・パワーズ著 みすず書房

 『世界で初めて女性に変身した男と、その妻の愛の物語』
  デビット・エ